みかづきの色々

デバイス(スマホからキャンプ用品まで)とかプログラミングとか中心のいろいろ試験的なブログ。

本物志向の話

昔から僕が理解できない他人の考えのひとつに『本物志向』がある。

ちょっと実例をあげてみよう。

たとえば高知や徳島にはリュウキュウと呼ばれる食べ物がある。
これはハスイモといって東アジアを中心に広く食べられているものだが、高知や徳島には沖縄から導入された経緯があるのでリュウキュウと呼ぶのである。もちろん沖縄原産ではない。
イモと呼ばない理由はよくわかる。
リュウキュウはイモ部分でなく、大きく長い茎を食用にするからだ。


ところが、このリュウキュウの話をとある友達にした時の反応が面白かった。
なぜか彼は、その食べ物は沖縄から来たのかといった。当時の僕はよく知らなかったが、おそらくサツマイモ同様に沖縄から流入したのだろうと当たりをつけていたので、おそらくそうだと言った。
すると彼は「面白い。だったら高知より沖縄で本物を食べてみてはどうか」と言い出した。
正直、僕は意味がわからなかった。

沖縄で本物?意味がわからない。

おそらく、これが僕の『本物志向』との出会いである。

当時はわからなかったが、今はわかることがある。
これは。
僕は、この手の本物志向とは残念ながら折り合えないってことだ。

インディアンは?ランブレッタは?そもそも『本物』って?

たとえばハーレー・ダビットソンやベスパに乗る人たちがいる。
ハーレー特有のおもしろい味のある走りや、ベスパの合わせホイールの話を聞くのは実に楽しいし、彼らのハーレーが好き、ベスパが好きだって気持ちが伝わってきて僕も嬉しくなる。
母がハンドチェンジのラビットに乗っていた事もあり、クラシック・ベスパはいつか乗りたいと思っているバイクのひとつだ。

だけど。
彼らの中に、たま〜に混じっている、いわゆる日本製のクルーザータイプのバイクや国産スクーターをゴミのように言う人たちは正直どうかとも思う。

彼らはそれらを一種のブランドと考えているようだ。
つまり舶来ブランドものになぞらえ「本物ではない」つまりパチもんに乗る人々をバカにしているわけだ。
乗り物だけでなく、乗ってる人までかわいそうにと嘲笑している。

そのことに気づいた時、なんで自分がそういう人たちを嫌うかを理解した。

君らの頭の中の主義主張まで否定するつもりはないが、人様にそれを吹聴してたらそれはどうかなと思う話ではある。

だいいち、世界中で日本のスクーター乗ってる連中までバカにすんのかと。
アメリカで学生バイクと言われて30年も愛用され、自分が乗らなくなったら息子や奥さんにプレゼントしたり、あれほどネットに走行動画や改造話が溢れているホンダ・レブルがお気に入りの連中を否定すんのかと。

文化とは変化し、出会い、化学反応するもの

話を戻そう。

いわゆる本物志向は人を消費に走らせる原動力にもなりうるのは事実だ。
実際、もし日本人に本物志向がなかったら、ボージョレ・ヌーヴォーが日本でお祭り騒ぎになるほど売れるわけがない。
ハーレー・ダビッドソンだってあんなに売れないだろう。
それはそれとして理解できる。

だが、ひとつ大事な事がある。
文化というのはよく化学反応を起こすってことだ。
そして、化学反応する前の原種がベストってわけでもないって事だ。

僕はロバート・ジョンソンが嫌いではないが、彼のCDは一枚あれば充分である。
理由は簡単で、ほとんどの曲がブルースの基本構造をきっちり守った同じ曲調のものであるため、彼の米語をきちんと読み取れない僕は最終的に飽きてしまうからだ。
実にもったいない話だが、これは仕方ない。
ブルースの真骨頂はその名の通り、憂鬱(ブルー)を歌や曲にぶちこんでいる事だ。
それは貧乏だったり、追いやられていたり、届かない気持ちだったり。
だからロバート・ジョンソンを正しく理解するには、彼の米語を聞き取れなくちゃたぶん無理なのだが、それを僕はストレートに聞き取れないのだから仕方ない。

実は、似たような傾向がある音楽が他にもある。南米フォルクローレだ。
クリスティーナとウーゴの話をすると、フォルクローレ版のローズマリー・バトラーだと言っている人がいる。つまり日本でよく売れてるけどアルゼンチンではそうでもなかったと言いたいのだろう。
だからなに、とも思うが。
クリスティーナは天然天性のソプラノ歌手でもあり、特に高音部の小鳥のような響きはあまり他に類がない。
さらに彼女はテレサ・テンがそうであったように音楽の研究家でもあり、定番となりつつも複数のバージョンがある楽曲を再編してみたりもしている。
そうして作られたテレサ・テンの北京語版『何日君再来』は好きだし、クリスティーナ版の『El Condor Pasa』は、よくある現地録音の素朴な『本物のEl Condor Pasa』よりも優雅でエスニックで叙情的で美しい。
こういうのはよくある事だろう。
『恋はみずいろ』を作ったのは確かにポール・モーリアではないが、だからって1967年のヴィッキー・レアンドロスの『L'amour est bleu』をそのまま聴くと、イントロは今となっては地味で素朴ですらあるだろう。
いわゆる原石の輝きというやつだが。
それを磨き上げ全世界にヒットさせたのはポール・モーリアの編曲センスも忘れちゃいけない。
彼はこの曲が気に入ったがイントロが寂しいと考え、叙情的な主旋律にふさわしい出だしを書き足したわけだ。


話がそれてしまったが、文化とはそういうものだ。

アメリカン』というジャンルは過去のものになってしまった。

バーボンとスコッチのように、オートバイにも英国風やイタリア風、そしてアメリカ風がある。
で、特にアメリカ風のやつをクルーザーと呼ぶ。
要は呼び方の問題なので、日本でアメリカンといっているのも単に呼び方の都合にすぎないが……。
ただし日本でいうアメリカンと海外で言うクルーザーは違う部分があったりもするが。
そこは、それぞれのお国事情もあるのだろう。

そういえば、ジャメリカンなんて蔑称があった。
もちろん「アメリカン」を揶揄したものだ。
まるでハーレーダビットソンだけが本物で、他はすべてニセモノだと言わんばかりの言葉だけど、この言い方が好きな人はしばしばいる。

でもさ。
そもそも国産メーカーに『アメリカン』なんてラインナップはもうとっくの昔に存在しないのだけど?
各メーカーのWebみてみてよ、どこに「アメリカン」があるんだい?

もちろん旧車を語るならわかる。
当時はアメリカンモデルって枠組みがあっただろうから。

でもなんで勝手に今の新型のバイクにまで「アメリカン」だの「ジャメリカン」だのって言ってる?

名前だけじゃない。
今や国内四大メーカーから、いわゆるアメリカンモデルは一掃されてしまった。
なのに。

ウソだと思ったら確認してみ?

ヤマハで唯一残っているクルーザーモデル『BOLT』。
新しいホンダの『レブル』。
そして、カワサキの『バルカン』。

見ればわかるけど、こいつらの区分けはこうなってる。
BOLT→クルーザー
他→特になし。あえていえばロードモデル
なお、USホンダのサイトではRebelは「CRUISER」となってる。

そして何より重要なこと。
こいつら生き残り組ってもう、いわゆる「アメリカンモデル」の形をしてない。
どいつもこいつも。
良くも悪くもだ。

実際、ネットでの評価を見ていると以下のようなのを散見しないか?
おもちゃのようなデジタルメーターがいただけないとか。
ラグジュアリー感がないとか。
なんでVツインじゃないんだよとか。

言いたいことはわかる。

これは、今までのラグジュアリーなアメリカンモデルがほしい人の意見だと思う。
無理もない。
求めたいものと違うのだから、そりゃ文句が出るのは当たり前の話なのだ。
僕だって同じ立場なら間違いなく嘆く。

ただ。
メーカーとしても、そういう「アメリカンモデル」は作るつもりがないんじゃないかな?
かりに欧米向けに売っても、少なくとも国内市場では出すつもりはない。
ラインナップを見ていてそう思う。

実際、苦労して作ってパチもん呼ばわりされるものなんて、
メーカーも作りたくないだろう。

とりま。

とにかく、源流こそが本物でそれ以外はニセモノと言うのは……それも主張としてはアリなんだろうけど、僕としては正直、ごくろうさま、でも主張は自由だけど他人に押し付けないでねというところだ。

そもそも。
ジャンルが違ったって空を飛ぶわけじゃなし、バイクはバイクだもんなぁ。